脳のシナプスの“すき間”では何が起きているのか
—局在するたんぱく質からシナプス間隙の役割を明らかに—

総合生命科学部 生命システム学科 浜 千尋 教授

局在するたんぱく質からシナプス間隙の役割を明らかに

 私たちは脳のはたらきによって、目の前のものを見たり、ものを考えたり、体を動かしたりしています。しかしこの複雑で精せ いち緻な構造を持つ脳の機能については、まだまだわからないことがたくさんあります。比較的単純なショウジョウバエの脳を材料に、脳の不思議、特に神経細胞と神経細胞の接続部であるシナプスの“すき間”(シナプス間かんげき隙)の謎を解き明かそうと日夜研究を続けている浜千尋先生に、これまでの研究と今後の展望についてお話しいただきました。

シナプスにあるわずかな“すき間”の役割

 脳の機能は、電気信号を発して情報をやりとりする神経細胞のネットワークによって成り立っています。そのネットワークをつくる神経細胞と神経細胞の接続部をシナプスとよびます。神経細胞の数は人の脳で1011個、宇宙の星の数に匹敵するほどありますが、シナプスは通常さらにその千から1万倍もあります。この膨大な数のシナプスをもつことによって、脳は高度な機能を生むことができると考えられています。

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 シナプスでは、神経細胞と神経細胞の間に、20ナノメートルほどの“すき間”(シナプス間隙)が空いています( 図1)。電気信号がシナプス前部に伝わると、シナプス前部内のシナプス小胞がシナプス前膜と融合します。その結果、シナプス小胞内にある神経伝達物質という化学物質が“すき間”に放出されます。

 神経伝達物質がシナプス後部の受容体に結合すると、ふたたび電気的な信号が生み出され、神経細胞を伝わっていきます。このようにして、神経回路の電気信号は、シナプスを越えて神経細胞から神経細胞へと伝わっていくのです。シナプス前部と後部はとても複雑な装置ですが、これまでの研究でかなりのことがわかってきました。しかし、シナプスの“すき間”で何が起きているのかはまだよくわかっていません。私はシナプス間隙と呼ばれるこのすき間の謎を解き明かしたいと考えています。

シナプス間隙に存在するタンパク質をコードするhig遺伝子を発見

 もともと、行動の調節や思考の中心である神経系の発生機構に関心がありましたが、実際にショウジョウバエをモデル動物として神経系の研究に取り組むようになったのはいまから20数年前です。

 ショウジョウバエの研究の多くは、まずミュータント( 突然変異体)を見つけることから始まります。私が研究を始めた頃は、脳の発生機構を研究するために、胚の神経系の構造に異常があるものをスクリーニング(ふるい分け)する方法が一般的でした。しかし、私は成虫まで育てて、動きの悪いミュータントをスクリーニングすることにしました。最先端の研究はアメリカで行われていましたが、そこで行われていることと同じことをしていては研究に勝てないと思ったため、当時珍しかった「行動」に注目したのです。

 たくさんのスクリーニングをした結果、二つの原因遺伝子を特定することに成功しました。そのうちの一つが、シナプス間隙に存在するたんぱく質を作る遺伝子、hig遺伝子でした※1

※1  hig ミュータントは動きが悪いが、光を当てると動き出すことから研究室の大学院生が原因遺伝子をhikaru genki (通称hig )と名付けた。同定されたもう一つの遺伝子は、シナプス前部内に存在して、シナプスの成長を制御する働きを持ったタンパク質をコードしていることが明らかになっている。

原因遺伝子を特定

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 今では、ショウジョウバエのゲノムDNAの全塩基配列はすべてわかっていますが、20年前はhig遺伝子の塩基配列を明らかにするまでに大変な労力が必要でした。その流れを簡単に説明するために、まずP因子というトランスポゾン( 可動性因子)※2から話を始めましょう。P因子には染色体DNAのいろいろな場所に入りこむという性質があり、その結果、ある遺伝子(この場合hig遺伝子)に変異をひき起こします。higミュータントの変異も、このP 因子が原因でした。

 P因子の塩基配列はわかっていましたから、higミュータントに挿入されたP因子を目印にして、その挿入部位のまわりの染色体DNAを特定することができます。そのDNAの中に、hig遺伝子(の一部)が存在していることになります。実際には、数多くの技術を駆使して、ようやく目的とするhig遺伝子の塩基配列を明らかにすることができました※詳しくはコラム参照。

 ショウジョウバエの遺伝情報についてのデータベースが拡充された最近では、この種の労力をかける必要はほとんどありません。P因子の挿入によるショウジョウバエのミュータントは既に数千株が同定、保存されていて、そのほとんどが塩基配列レベルでP因子の挿入位置までわかっているのです※詳しくはコラム2参照。また、近くにある遺伝子の塩基配列もすべて明らかにされていますから、後は、どういうアイデアで既に存在しているミュータントを選んで研究を進めるかが問題になってきているわけです。

※2 トランスポゾンはDNAの断片で、染色体DNA中をある場所から他の場所へ移動(転移)することができる。それ自身の塩基配列の中に転移を触媒する酵素をコードし、その酵素によって認識される塩基配列をも持つ。ほとんどの生物の染色体に存在する。

誰も知らないシナプス間隙の成り立ちと役割

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 さて、hig遺伝子全体の塩基配列が明らかになると、そこには分泌性のタンパク質がコードされていることがわかりました。今までに、そのHigタンパク質はシナプス間隙に存在していること(図2、図3)、Higタンパク質がなくなるとショウジョウバエの動きが悪くなることなどがわかっています。また、よく似たタンパク質は人間の脳にもあって、それがなくなると精神遅延やてんかんなどが起こることも知られています。

 私の研究室では、Higタンパク質の機能を調べることを通して、最終的にシナプス間隙の成り立ちや役割を明らかにしたいと考えています。実はシナプス間隙の謎に迫る研究を再開したのはここ数年のことです。データベースや技術の進歩によって、研究環境が整ってきたということがその理由のひとつです。実際、最近になってHigタンパク質とは別のシナプス間隙に存在するタンパク質も新たに発見しており、現在、Higタンパク質とともに研究を進めています。

 今後研究が進めば、シナプス間隙にはもっと多くのタンパク質が存在して、特殊な細胞外マトリックスを構築していることが明らかになってくるでしょう。そのマトリックスは、シナプス後部にある受容体をあるべき場所に局在化させる、あるいはシナプス全体の構造を安定化させる可能性があります。わずか20ナノメートルのすき間で、一体何が起きているのか、その全貌はまだ誰も知りません。ぜひ自分たちの手で明らかにしたいと思っています。

コラム:1 ショウジョウバエをモデル動物とした研究の魅力

 ショウジョウバエをモデル動物として使う意味は2つあります。1つは、比較的簡単な構造をしていますから、人間を含めたすべての生物に共通な生命現象を明らかにするうえで研究しやすいこと。もう1つは、進化の過程で、この地球上で独自に発達して成功している一生物として、私たち人間と異なる構造、機能を持っていますから、その違いを比較することで、互いの存在意義が見えてくるという面白さがあります。

 また、モデル動物として100年以上の歴史があるので、遺伝情報が非常に豊富で、研究がしやすいことも魅力です。現在、数万あるミュータントはアメリカ、日本、ヨーロッパのストックセンターで保管されていて、インターネットを通じて送ってもらうことができます。FlyBaseというデータベースには、ショウジョウバエのものすごい量の遺伝情報がつまっているので、興味のある人は一度のぞいてみてください(http://flybase.org/)。トップページのEnter text: の次に「hig」と打ち込むとhikaru genki 遺伝子の情報を見ることもできます。

コラム:2 原因遺伝子特定までの流れ

 当時行った原因遺伝子を特定するまでの実験の過程を紹介します。

 まず、DNAをばらばらにする働きをもった酵素でミュータントのDNAを小さく刻み、その断片をベクター(運び屋)であるバクテリオファージに組み込みます。次に、いろいろな断片をもった数千から数万匹のファージを、餌となる大腸菌と一緒にシャーレの寒天培地の上にまきます。すると、それぞれのファージは増殖して直径1ミリメートルほどのプラークとよばれる円い透明な班をつくります。この寒天培地の上にフィルターを直接のせることで、たくさんのプラークをフィルターに移しとることができます。

 ここで、P因子の一部のDNA断片に放射性同位元素で目印をつけ、その溶液をフィルターにかけることにより、既にフィルターに吸着していたファージのDNAとハイブリダイゼーションさせることができます。ハイブリダイゼーションとは、2種類ある一本鎖の核酸を相補的な結合により二本鎖にする操作です。

 放射線同位元素で目印をしたP因子のDNA断片は、ミュータントの染色体DNAに挿入されたP因子のDNAと結合することができます。そのため、X線フィルムをフィルターにあてて感光させると、P因子を含むDNA断片をもつファージのプラークが感光した黒点として検出されます。そして、その対応するプラークを寒天培地上で探し当てることができます。目的とする原因遺伝子は、そのプラーク中のファージが持つDNA断片中に含まれている可能性が高いのです。

※ 細菌ウイルスの一種。“細菌を食べるもの”という意味の通り、大腸菌などをエサにする。増殖力が高いため、研究で広く使われる。

総合生命科学部 生命システム学科 浜 千尋 教授

プロフィール

理学博士。中学時代、生物の先生の影響で、顕微鏡写真の美しい世界に魅せられた。大学の研究テーマは、大腸菌のプラズミドのDNA複製を制御するタンパク質の発現調節。より高等な生物の神経系に関心があったため、アメリカでのポスドク時代からショウジョウバエをモデル動物とした研究を始めた。脳神経系に関心を持ったのは、体を動かしたり、においを嗅いだり、人であればものを考えるための中心的な働きをするところだから。私立栄光学園高等学校OB。

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