- HOME
- 研究
- サイエンス&テクノロジー
- 生き物のエネルギー通貨を生み出すナノモーター—ATP合成酵素の回転運動を世界で初めて観察—
生き物のエネルギー通貨を生み出すナノモーター
—ATP合成酵素の回転運動を世界で初めて観察—
総合生命科学部 生命システム学科 吉田 賢右教授
エネルギー通貨を生み出すナノモーター――ATP合成酵素
私たちが普段活動するのに使っているエネルギーは、一体何がもたらしているのでしょうか。その答えは、細胞内にあるATPという分子にあります。人間を含め、あらゆる生物のエネルギー供給源となるATP、それを作り出すのが、ATP合成酵素です。そのATP合成の具体的な仕組みは謎に包まれていましたが、近年になってその詳細が判明してきました。意外なことに、ATP合成酵素は回転していたのです。人間が水車を発明するよりも、はるか昔から存在していたナノモーター。世界で初めてATP合成酵素が回転していることを観察した吉田賢右先生に、お話をうかがいました。
全ての生物のエネルギー通貨
物を見る時、脳の中ではどのような情報処理が行われているのでしょうか。それを考えるために、錯視・錯覚を起こす図を用意しました。
ATP(アデノシン三リン酸)とは、生物に必要不可欠なエネルギーの供給源です。植物もバクテリアも、全ての生物はこのATPという小さな分子をADP(アデノシン二リン酸)とリン酸に加水分解することで生まれるエネルギーによって活動しています。運動はもちろん、細胞の中のいろいろな化学反応を進行させる、嗅いや味を感じる、あるいはDNA(遺伝子)の複製まで、あらゆることにATPは用いられます。いわばエネルギーと交換できるお金のようなもので、エネルギー通貨と呼ばれることもあります。
ATPが分解されて出来たADPとリン酸は、食べ物を燃焼して得られるエネルギーによって再びATPに合成されます。人間の体内にはわずか数10グラム、約3分間分のATPしか存在しませんが、常時使っては合成しているので、一日に作られるATPは体重に相当する量になります。
このATPはATP合成酵素※により作られますが、そのメカニズムについては大きな謎でした。これに対して画期的な仮説を立てたのがポール・ボイヤー(Paul Delos Boyer,1918-)です。彼は、ATP合成酵素は回転していると提唱しました。このアイデアはあまりに常識破りであったため、長い間、学界では相手にされませんでした。しかし、ボイヤーの考えは実際には正しいものだったのです。そして彼の説を裏付けたのが、世界で初めて回転するATP合成酵素を観察することに成功した私たちのグループだったのです。
ATP合成酵素に関する研究は大変重要なものであり、1997年秋にボイヤー、ウォーカー、スコウの3名はノーベル化学賞を受賞しました。私たちもノーベル賞に迫っていたと思いますが、ノーベル賞は3人までにしか与えられませんから、4人目の候補だったのかもしれません。
※酵素はタンパク質の一種。触媒の機能を持つ。
回転するATP合成酵素
人間の場合、ATP合成酵素はミトコンドリアの内膜にあり、水素イオンの流れによってATPを作っています(図1)。その仕組みを、水力発電を例にとって説明しましょう。
水力発電は、水の位置エネルギーを電気エネルギーに変換するものです。ダムの堤で高所に水を貯めておいて導水路の中に落とし、その勢いで発電機のタービンを回して、電気を生みます。
ATP合成の場合、水素イオンが水で、膜がダムの堤、ATP合成酵素が導水路と発電機にあたります。水素イオンの濃度差が、ダムにおける水位の高低差です。
ミトコンドリアの外側にある水素イオンは、膜によって内側に入るのを塞き止められています。この水素イオンは溜まってくると内側との濃度差によって膜に点在するATP合成酵素の中に流れこみます。すると、その流れの勢いで酵素中央のシャフトが回って、発電機の代わりにATPを合成するマシンが動き、ADPとリン酸からATPを合成するのです(図2)。
もちろん、これを続けるとミトコンドリア内部の水素イオン濃度が上がっていずれ内外の濃度差がなくなってしまいそうです。しかし、ミトコンドリアには食べ物を燃焼すること(細胞呼吸)によって水素イオンを外側へ汲み出す機構がいつも働いているので、水素イオンの濃度差は維持されて、ATP合成酵素はATPを作り続けることができるのです(図1)。
ところで、ATP合成酵素が回転しているということは、注目に値する事実です。
私たちの身の回りには、回転運動が至るところに見られます。モーターなどは顕著な例でしょう。ロボットも、モーターの回転を並進運動に変換して動いています。しかし、生物にとって回転は特殊な動きなのです。実際、生物における回転運動は、ATP合成酵素以外ではバクテリアの鞭毛くらいしか存在しません。
回転が生物にとって例外的な動きであることは、スクリューで進む魚やプロペラで飛ぶ鳥、車輪を持った動物がいないことからもわかります。回転してしまうと付随する血管や神経、あるいは骨などの器官が千切れてしまうからでしょうか。回転するためには、情報伝達系やエネルギー伝達系を切れないようにうまく組み合わせておかないといけないのです。ATP合成酵素が回転できるのは、回転軸が周囲のリング状の固定子の中で浮いていて、固定されていないからです。
ATP合成酵素を研究するということ
ATP合成酵素が回転する理由は、現在のところわかっていません。回転せずにATPを合成する機構はいくらでもありますし、ATP合成酵素の反対の仕組みも、私たちの体内の様々な場所で見いだせます。たとえば、胃袋の内部は常に強い酸性で保たれていますが、これはATP合成の逆で、ATPを利用して水素イオンを濃度の低いところから高いところへ汲み上げているのです。ダムの例えでいえば、下流の水をポンプで上流に汲み上げているようなものです。ですから、この胃袋の酵素を逆に使えば、ATPを合成することはできるということです。その仕組みもずっと簡単ですが、実際これを用いてATP合成を行っている生物はいません。
ではなぜ、あらゆる生物が簡単な機構ではなく、複雑なナノモーターを使用しているのか、それには、何か重要な理由があるはずです。もし火星で生命が見つかったとして、その生命も回転によってATPを合成していたとすれば、回転には宇宙的な普遍性があるといえるでしょうが、現段階ではまだ謎のままです。
それでは、ATP合成酵素が回転していることを発見したことは一体何の役に立つのでしょうか。私にはその答えもわかりません。役に立つからではなく、知りたいから、研究するのです。新しい発見があると考え方が変わるから、研究するのです。学問とはそういうものです。
何かちょっとした発見があってニュースになると、必ず「その発見は何の役に立つのか」と聞かれます。あるいは、研究費を申請する場合にも、何に役立つかを説明しなければならない風潮もある。このような状況で「私の研究は役立たない」と断言するのは難しいことですが、といってある研究が何の役に立つのかは、一概には言えないのも事実です。結果的に役に立つかどうかが、全くの偶然によることもあるのです。たとえば、素数論という学問があります。これは、昔は数学者の遊びのようなものでしたが、今となっては通信などの暗号論に欠かすことのできない基盤となっています。マクスウェルの電磁気学もそうです。当時は、電気が何の役に立つのか誰も理解していませんでした。実は、すぐ役立つものよりも100年後に役立つもののほうが重要かもしれないのです。
アドバイス
一口にサイエンスをやってくださいとは言いません。文系に進んだり、就職したりする人もいるでしょう。しかし、どのような場合でも、一個の人間として社会のことや自然のことをできるだけ道理にそって科学的に理解する力は必要です。物事に対しての基本的な知識と、それを基にした合理的な行動の指針が重要なのです。知識がないとどうにもなりませんが、知識だけでは不十分です。知識に加えて合理的に推論ができることが大事です。そういう意味での、学力――生きる力を身につけてほしいと思います。
総合生命科学部 生命システム学科 吉田 賢右教授
- プロフィール
-
理学博士。大学・大学院では理論物理を専攻。物質を研究対象としていたが、環境の変化に柔軟に適応する生物と非生物の現象面での違いに関心を持つ。博士号取得後、カナダに留学し、心臓麻痺のメカニズムを数値シミュレーションモデルで解析。しかし、人工心臓が開発されているように、心臓の動きは機械的で知性があるものには感じられなかった。人間にはまだ同じレベルのものを創造することができず、かつ知性のある生体器官は脳しかなかったことから脳科学の道へ進む。本来意味のない物理化学現象の連鎖から、なぜ、やわらかさや知性が発現してくるのかが究極的な研究目標。脳科学のおもしろさを伝える本としては『脳のなかの幽霊』(ラマチャンドラン著、角川書店)がおすすめ。愛知県立千種高校OB。