ポストゲノム研究がバイオの未来を開く —免疫学と分子生物学を基礎とするがん治療薬の開発—

工学部 生物工学科 中田 博 教授

免疫学と分子生物学を基礎とするがん治療薬の開発

 高齢化社会を迎え、今や日本人の死亡原因の3分の1となったがん。
 昨年には、その予防や早期発見・治療、緩和ケアの充実、専門医養成、積極的ながん登録などを盛り込んだ、がん対策推進基本法が施行されました。
 もちろん世界的にも、がんに対する取り組みは様々な分野、領域で急速に進められています。
 治療薬や治療方法の開発はビジネス的にも大きな市場であるからです。
 免疫学と分子生物学の境界で、新薬開発のための研究で世界と鎬しのぎを削っている中田博先生に、これまでの成果と今後の展望を(研究の面白さとともに)語っていただきました。

若い日の抗体研究が、今また新薬開発の鍵を握る

グラフ

 大学院生のI君が、ムチンという糖タンパク質(図②参照)の刺激を受けると、免疫系細胞の一つであるマクロファージの中で、プロスタグランジンという生理活性物質を合成する酵素、シクロオキシゲナーゼ(COX)2の量が明らかに増えていたと、笑顔で報告に来たのは5年前、2002年の春のことです。この成果で、私の研究室は、科学技術振興機構による戦略的創造研究支援事業の拠点に選ばれ、この5年間は国の支援を受けて研究を続けてきました。

 みなさんの中には病気に罹かかって血液検査を受けたことのある人もいると思いますが、ムチンはがんなどを発見するための腫瘍マーカーの一つとして検査項目の中に顔を出します。

 ムチンは通常、気道や消化管などの上皮細胞表面(図①参照)に分泌されたり、それを覆ったりしていて、外からの異物に攻撃されやすい上皮細胞を守る役目をしています。上皮細 胞内で作られたムチンは、一定の輸送ルートで表面へ送り出されるのが普通ですが、がん細胞によって上皮細胞が壊されると(がん細胞も上皮細胞からできる)、がんの作ったムチンはがん組織全般へ分泌され、中には血液中に出てくるものも現れます。こうしたムチンは先端の糖鎖※1が質的に変化していることから、がんに関連した糖鎖抗原の一つと見なされ、腫瘍マーカーの一つとなっているのです。

 腫瘍マーカーに対しては、それに反応する抗体として、モノクローム抗体という、単一の性質を持ち量産できるものが使われていますが、実はこのモノクローム抗体を作るのが私の研究人生の出発点だったのです。当時私はがんが産生するムチンを識別する三種類のモノクローム抗体を作ることに成功し、がんの早期発見に貢献するという、大きな夢を描いていたのです。

最初の成果、ムチンがプロスタグランジンE2の産生を高める

 しかし、ムチンが血中に出てくるまでにはかなり時間がかかりますから、腫瘍マーカーでがんを発見しても早期に発見することはなかなか簡単ではありません。がんの早期発見や治療に対してもっと有効な方法はないのかと、私は模索し始めました。そして血中に出てくるムチンそのものが、もしかしたらがんの進行に関連しているのではないかと、漠然と考えるようになりました。

 そんな私が最初に注目したのは、20数年前から知られていたデータで、ムチンなどのがん関連糖鎖抗原の血中濃度が高い患者は、それが低い患者よりも5年生存率が低いというものです。そもそも、ムチンそのものがどこかで免疫力の低下に関係しているのではないか、それも体のどこかががん化して初めてその接点が出てくるのではないか、私はこのデータの背景をこのように考えてみたのです。これが免疫とがんの中間という、世界でも研究者の少ない領域を自分の研究の足場にすることになった原点です。 がんが起こると、まずマクロファージや、T細胞、樹状細胞などの免疫系の細胞がこの異物に対してそれを取り除こうと行動を始めます。

 本来、これでがんは消滅するはずですが、実際にそうはなりません。原因はいろいろ考えられますが、一つには各種の臨床データからも、マクロファージなどが、がんに対して本来の力を発揮できていないことが考えられます。というよりも、がんによって死に体にされ、逆にうまく利用されている節さえあるのです。

 そもそもマクロファージは、免疫系の機能以外にも生理活性物質などの因子を出す宝庫です。逆に利用されればがんが自らを増殖させるにはもってこいです。

 マクロファージ、がん、ムチンの間に、これまで誰も考えなかったような分子機構が働いているのではないか? そんな仮説を立てて、私は、7、8年前にすでにその合成機構や機能、産生する酵素について明らかにされていたプロスタグランジンE2(PGE2)という生理活性物質を調べてみることにしました。この物質には免疫抑制やアポトーシス(細胞の自殺)を抑制する機能、さらに血管新生を促進させる機能などがあって、がんが増殖するのにこの上ない環境を整えることができます。

 予想は簡単に当たりました。シャーレの中で培養したマクロファージに、ムチンをふりかけるとマクロファージはたくさんのPGE2を産生したのです。

成果2、スカベンジャーリセプターとCOX2

 次の課題は、ムチンとPGE2を結ぶ分子機構を解明し、そこからPGE2の産生を抑える、あるいはムチンの刺激をどこかでストップさせる方法を見つけることです。

 抗体が抗原を捉えたり、ウィルスが上皮細胞に感染したりするのと同じように、マクロファージも受容体(レセプター)を介して異物を捕えます。異物がムチンの場合、それを捕まえるのはスカベンジャーリセプターであることを私たちはまず発見しました。

 がん組織に浸潤した※2マクロファージのスカベンジャーリセプターにムチンが結合すると、その情報が核に伝えられシクロオキシゲナーゼ(COX)という酵素の発現が促され、PGE2が産生されマクロファージの免疫力が弱められます。さらにそれだけでなく、産生されたPGE2は、血管新生など、がんが増殖するのに有利になるような生理作用を周囲にもたらすと考えられます。ちなみにCOXは、アスピリンによって抑制されることが知られていますが※3アスピリンはCOX1(構成的酵素)、COX2(誘導酵素)と二種類あるCOXの両方を抑制するため、COX1も抑制されてしまい胃壁があれるなどの副作用があります。

様々な応用に夢は広がる

 現在、製薬各社ではこのCOX2だけを抑制する新薬の開発に取り組み、大腸がんなどに著しい効果を挙げているところも出てきています。ただ、私の研究のオリジナルはレセプターとムチンの結合に端を発することから、それを生かした新薬の開発も進めています。そのうちの一つがスカベンジャーリセプターの断片を遺伝子操作で作り、それをがん細胞に近寄るマクロファージの手前にばら撒くという方法です。これだとムチンが分泌されていても、先にスカベンジャーリセプターの断片と結合し、マクロファージとは結合できなくなり、その免疫力を低下させることができなくなるからです。もっとも固形のがんに、どのようにこの断片を到達させるかには一工夫が必要で、薬への実用化には多少時間がかかるかもしれません。

 しかし、がん以外の炎症性疾患の治療では、もっと早期の実用化が期待されます。リュウマチ、子宮内膜症などの炎症性疾患は、がん同様、組織や細胞の過形成(増えすぎ)が原因ですが、そのいずれにも私はマクロファージの関与を疑っています。もしそうであれば、スカベンジャーリセプターの断片を上手に炎症部位に注入してやれば、炎症を軽減することができるはずです。事実、動脈硬化を起こしたマウスの血中に、スカベンジャーリセプターを投与すると効果が上がったという成果を、外国の研究者が私たちの先を越して発表しました。

 現在、私が最も有望視しているのはリュウマチの治療薬への応用です。これは京都府立医科大学の先生と共同で行なっているもので、リュウマチを起こしたマウスに断片を投与することで実際に効果を挙げており、先頃特許申請にこぎつけました。同様に子宮内膜症の治療についても、研究は順調に進んでいて、こちらも特許を取得する方向で進めています。これらの病気で治療薬を完成できれば、本命であるがんの予防、治療にもあと一歩と迫ることができるのではないかと、大いに夢を膨らませています。

プラスコラム

B細胞とムチン

 がん細胞が作ったムチンによって、免疫系細胞の機能が抑制され、免疫力が弱められているのではないかという仮説を、免疫系細胞の代表格とも言うべきB細胞についても考え、その機構の分析を行うとともに、それを新しい薬の開発にもつなげていきたいと考えている。

 B細胞は自らの表面にB細胞受容体をもち、それで抗原を捉え、その情報から同じ抗原と結合する抗体を細胞外へ分泌する。抗体が抗原を捉えると、それを目印に集まり、それを食べたり、殺したり、その毒素を中和したりするのがマクロファージだ。ただ、自己免疫疾患のような抗体が作られすぎるリスクを防ぐため、B細胞には抗体の産生を抑制する情報を取り入れるシグレック2というレセプターもある。

 実験の結果では、がんの作ったムチンはこのシグレック2にも結合することが確かめられた。またマウスのお腹に乳がん細胞を作らせて、B細胞の多い脾臓、なかでも濾胞という組織の形成状態を調べたところ、ムチンを作るTA3−Haという乳がん細胞では、脾臓の中で異物を真っ先にキャッチするマージナルゾーンと呼ばれる部分でB細胞が消失し、TA3−St型と呼ばれるムチンを作らない乳がん細胞では、正常のままであることを世界で最初に確かめた(図②参照)。

 また、北里大学と共同で胃がん治療のため切り取られた人間の脾臓標本で、濾胞の面積を積算したところ、がん産生のムチン(CA19−9)の血中濃度が高い患者ほど濾胞の面積が減少していることを、これも世界で初めて確かめることができた。

 つまり、がんに対する免疫力を高めるには、このような血中ムチンをいかに除くかが重要になってくると考えられる。ムチンの抗体を樹脂に結合させ、その樹脂を詰めたチューブの中に血液を通すことでムチンを除く、あるいは血中に、直接、抗体を注入するなどして、ムチンを抗体に接合させ、それをマクロファージに食べさせることで血中から取り除く方法を開発していきたい。

※1 糖の分子が鎖のようにいくつもつながったもので(図①の黒丸で示された部分)、たんぱく質の先端に付いてそれが正常に働くのに欠かせない役割を担っているもの。

※2 浸入して広がること。

※3 欧米には、リュウマチなどの炎症性疾患を持ちアスピリンを常用する患者では、大腸がんの発現率が通常の人の40%という統計がある。

アドバイス

高校時代にはどんな勉強を?

 人間にとって必要なアミノ酸は20種類しかありません。高校の化学では、私たちの時代もそうしましたが、これを知っておくにこしたことはありません。どのような学問分野でも基礎的な知識は必要なのです。受験のためと思うと本当に味気ないですが、大学、あるいは研究室に入ると、この時の知識がすべて役に立つことをしみじみと感じます。ただし、知識を単なる知識に終わらせず、知力に結びつけていくためには、これを生物現象の一つの歯車として理解する必要があります。ただ、こうした理解の仕方は高校ではなかなか難しい面もありますから、大学ではみなさんの持っている引き出しを増やすだけでなく、これらの知識を統合して理解できるような講義をしているのです。その時引き出しは、少しでも多いほうがいいですね。

卒業したら

 現在、研究室には6人の大学院生がいますが、私のゼミでは半数ぐらいの学部生が大学院へ進みます。学部生、大学院生ともに就職先としては製薬会社や食品会社が多いですね。バイオ産業はまだ発展途上ですが、ips細胞(万能細胞)の利用など、今後、飛躍的に伸びる可能性があります。本学科は、このような産業に対応できる技術を修得できますから、将来このような方面で活躍したい人にはピッタリだと思います。大学院長の立場から一言。面倒見のよいのが本学大学院の特徴です。

工学部 生物工学科 中田 博 教授

プロフィール

幼い頃から、勉強の成績は悪くはなかったけれど体が少し弱かった中田少年。早く大人になって、体の健康や薬について研究したいと夢を描いていた。高校時代、新聞に連載されていた大阪大学のバイオの草分けである故赤堀先生の新聞記事に触れ、その思いを一層募らせる。当時は医学部を出て研究者になるイメージがなかったため、薬学部(京都大学)へ。岡山県立総社高等学校出身。

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