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脳と心の不思議に迫る—記憶や言語活動に関与する遺伝子と分子機構を求めて—
理学部 物理科学科 別所 親房 教授
21世紀は「脳の世紀」といわれ、宇宙の果て、物質の究極とともに、脳は(自然)科学の最後のフロンティアになっています。心が脳からいかにして生じるか?それを解明しようと、世界中の科学者がいま激しい競争を繰り広げています。脳科学では、「知る」、「治す」、「創る」、「育てる」を重点目標に、応用研究も盛んに行なわれています。一人一人の脳活動(心といってもよいかもしれません)が簡単に見えるようになれば、教育の方法は劇的に変わるでしょう。そして名人やノーベル賞受賞者のひらめきを誰もが追体験できるようになるかもれません。またニューロコンピュータ、バイオコンピュータなどといった学習機能をもったコンピュータや、学習するロボット、それにサイボーグも、やがて実現するでしょう。物理学を出発点にして、脳・神経の研究に精力的に取り組んできた別所先生に、学習・記憶のメカニズムを中心に、分子神経科学のこれまでの成果と、ご自身の研究の一端をお話いただきました。
長期記憶の秘密
心にしみる思い出——、私たちは忘れられない記憶を何気なくこんなふうに表現します。実際、長期記憶が形成される回路の神経細胞では物質代謝が起こり、核の中へ「物質が染み入り」、DNAが興奮して神経の形態が変化するのです。
記憶は学習によって獲得された情報の保存と再生ですが、保持される時間によって、短期記憶(数時間程度)と長期記憶とに分けられます。近年この2つの記憶には、分子神経科学上からも大きな違いがあることが分かってきました。繰り返し学習によって、短期記憶がそのまま長期記憶に移行するのではなく、長期記憶の形成では、脳の神経細胞の中で予想もしなかった遺伝子発現が起こるのです。
アメフラシの奇蹟—「たかがアメフラシ、されどアメフラシ」簡単な学習、潜在記憶の謎を解く
このことが確かめられたのは、エリック・カンデル(Eric.R. Kandel、2000年ノーベル生理学・医学賞受賞)等によるアメフラシ※1(写真①)を用いた研究でした※2。アメフラシは、「水口」という器官を強く刺激されると、エラを引っ込めます。水口からの刺激が腹部神経節にある感覚神経を興奮させ、感覚神経末端から味の素に似た神経伝達物質解説@であるグルタミン酸が放出され、隣接する運動神経の受容体解説②に結合し、運動神経が興奮してエラが引っ込むのです(無条件反射)。次にエラ引っ込めがおきない弱い刺激を条件刺激として水口に与えます。そして、その直後にエラ引っ込めを起こす強い刺激を頭や尻尾に無条件刺激として与えます(図①)。この刺激操作を繰り返すと、水口に弱い刺激を与えるだけでエラが引っ込むようになります。まさに、条件刺激である鈴の音だけで唾液を出すパブロフの犬の条件反射学習にそっくりです。
強い刺激は、感覚神経に側面から接する介在神経(図①)を興奮させます。介在神経の軸索末端からは神経伝達物質セロトニンが放出され、感覚神経上の受容体(図②)に結合し、複雑な物質代謝が起こって感覚神経が強く興奮します解説②。その結果、感覚神経の軸索末端ではカルシウムイオン(Ca2+)が大量に流入し、大量のグルタミン酸が放出され、運動神経が強く興奮してエラが収縮するのです解説②(図②)。これと同様の仕組みがパブロフの犬の脳にも当てはまると推定されますが、犬の脳は複雑なため、いまだ解明はされていません。
「心に染み入る」とき、神経細胞では何が起こる?
この実験には、もう一つの重要なポイントがあります。長期記憶ではシナプスの新生が、感覚神経の軸索末端で起きているのです。強い刺激や繰り返し刺激を受けた感覚神経では、Ca2+やタンパク質リン酸化酵素の一部が神経細胞の核の中にまで入り込みます。これが「染み入る」とたとえられる現象です。核内のCa2+または環状アデノシンモノヌクレオチド(cAMP)に応答するタンパク質がDNAに結合し、眠っていた特定の遺伝子にスイッチが入り、シナプスの成長を促す新しいタンパク質が合成されていきます。そして最終的にはシナプスの形態が変わり、新しいシナプスも作られます(図③)。ちなみにアメフラシを使った一連の研究・実験で、私達は長期記憶に関わるセロトニン受容体の候補遺伝子をクローニング※3し、その構造を明らかにしました。
短期記憶ではシナプス周辺の細胞膜の興奮が短時間続くだけですが、長期記憶の場合は新しいシナプス結合と神経回路が形成され、神経の興奮が長時間、安定的に続くのです。この長期記憶の仕組みは、神経細胞の役割分担や神経伝達物質と受容体が違っても、知能記憶をするネズミやサル、そして人間にも共通すると考えられます。カンデルは主にアメフラシを用いた学習・記憶の研究でノーベル賞を受賞し、長期記憶の解明にも大きく貢献したのです。
マウスの海馬で知能学習、顕在記憶※4の仕組みが分かる
ただ、アメフラシがいくら素晴らしいモデル生物だといっても、複雑な学習や記憶の研究には不向きです。この分野では、50年前、自転車事故で側頭部を強打して重度のテンカン症になり、海馬除去手術を受けて、テンカンは治ったものの短期記憶健忘症に陥った患者、H・Mさんの研究が契機になりました。現在ではモデル生物にマウス(写真②)を使った詳細な研究が発展し、その仕組みが徐々に解明されてきました。
マウスは水を張った水槽に入れられると、そこから出ようと泳ぎ回ります。その水槽の中に見えないように足場を置いておくと、最初は偶然に足場にたどり着いていたのが、同じことを何回か繰り返すうちに足場に向かって泳ぎ出すようになります。マウスは足場を記憶したのです。このとき、脳の側頭葉にある海馬※5を、外科的にまたは薬物で損傷すると、マウスはデタラメに泳ぎ、短期記憶ができなくなります。
短期記憶は、高頻度の電気刺激(HFS)で海馬神経の後シナプス電位(EPSP)が大きくなり、興奮が2 - 3時間持続する長期増強(LTP)と呼ばれる現象によると考えられています。このとき、強い電気刺激でMg2+ブロックがはずれ、NMDA型のグルタミン酸受容体が開き、Na+が流入してK+が流出し、さらにCa2+が流入して、LTPが起こるのです。そしてHFSを4発以上与えると、LTPは長時間続き、新しい遺伝子発現がおきることが確かめられています。このことは「水迷路学習」をさせたマウスと、足場を置かず単に泳がせただけのマウスの海馬の遺伝子発現を比べてみると分ります。水迷路学習をしたマウスの海馬には、学習させていないマウスには見られない遺伝子の発現が認められるのです(写真③、図⑤)。
脳の高次機能— 言葉(学習)のさらなる解明へ
現在、多くの脳研究者の興味は、海馬から大脳皮質の長期記憶に関わる神経活動と遺伝子の解明に向かっています。
他方、脳・神経科学のもう一つの焦点は、学習や記憶よりも高次の機能である、認知や意識です。私は、九官鳥の音声学習と娘の言葉学習の類似性に興奮した脳研究の出発点に戻り、アメフラシの学習・記憶の研究で培った考え方と実験方法を総動員して、モデル生物の鳴鳥とマウスの音声学習に着目し、言葉学習の仕組みに取り組んでいます(写真④、図⑥)。最近、鳴鳥の脳・神経活動を多点電極法※6で測定したり(図⑦)、鳴鳥の発声に伴って発現する遺伝子をクローニングしたり、マウスの脳で超音波の発声に伴って言語遺伝子といわれるFoxP2が発現変化することを見つけました。マウスと鳴鳥の音声学習の研究を足がかりとして、いつかヒトの言葉学習を分子レベルで解明したいと、私は心を弾ませ、日夜、知 恵を絞っています。
※1 アメフラシは俗名ウミウシ。海に棲む軟体動物。簡単な学習行動を示し、哺乳類の数十倍ほどの大きさの神経細胞を持っています。この神経細胞は、場所によって役割が決まっていて、しかも基本的な仕組みは哺乳類のものと変わりません。ですから非常に観察しやすく脳・神経系を研究するには最適です。カンデルはまたとないモデル生物を発見したのです。
※2 脳の研究には、2通りのアプローチがあります。一つは非侵襲的に(あるがままの状態で)人間の脳活動を見る方法で、今の脳ブームの火付け役となった、核磁気共鳴イメージング(MRI)や光トポグラフィーなどがあります。この方法は、大雑把に人間の脳・神経活動に伴う脳血管の血流や血液の酸化・還元状態をそのまんま見ることができます。もう一つは、脳を構成する神経細胞の構造と働きから見ていく分子神経科学的方法で、この場合はモデル生物を使った実験が中心になります。
※3 ウィルスなどを使って、大腸菌などの中で増殖させた遺伝子の中から特定の遺伝子だけを取り出すこと。
※4 勉強など言葉で覚える記憶。顕在記憶陳述記憶ともいい、スポーツなど体で覚える潜在記憶(手続き記憶)と区別する。
※5 人間をはじめ哺乳類では、記憶を司るのは大脳の下の両側にある海馬(図④)と考えられています。感覚器官からの情報は一旦大脳皮質に集められ、そこから海馬へ送られ、再び大脳皮質へ送られます。長期記憶を保持しているのは大脳皮質であることがほぼ分かっていて、海馬は短期記憶を長期記憶に変換する中継所だと考えられています。
※6 脳スライスの1点または2点で電気刺激を与え、各電極ごとの電気的な反応を調べる方法。
解説①:一連の神経細胞間の化学物質の受け渡しは、すべてシナプスと呼ばれる部分を介して行われます。神経細胞は樹状突起を延ばして情報を受け取り、軸索を使ってその情報を他の細胞に伝えますが、いずれの場合も他の神経細胞とはごくわずかな間隔をあけて接しています。この間隔の周辺がシナプスです(図③赤○部分)。1960年代、学習・記憶は、「学習分子」・「記憶分子」によっておきるのではないかと考えられていました(分子説)。しかし、その後、シナプスの変化によって起きるという考え(シナプス説)が有力となり、さらにシナプス間を神経伝達物質と呼ばれる化学物質(分子)が移動することがわかってきました。
解説②:神経細胞の内外には、カリウムイオン(K+)やナトリウムイオン(Na+)の濃度差ができて約-70mVの静止電位が生じています。神経細胞が刺激を受けると、細胞膜にあるイオンチャンネルが開き、Na+が流入し、K+が流出して約+100mVの活動電位が生じます。この電気信号は、細胞体の根元から軸索の末端へ向かって伝えられていきます。末端のシナプスでは、電気信号によって、Ca2+チャンネルが開きCa2+が細胞内に流入することで、グルタミン酸などの神経伝達物質(NTM)の入った袋が破れて、NTMがシナプスに放出されます。NTMを受け取った後の神経細胞では、受容体と呼ばれるチャンネルからNa+が流入し、K+が流出して再び活動電位が発生します。電気信号はシナプスで一旦、化学信号となり、信号を受けた細胞で再び電気信号へと変換され、次のシナプスへと次々に伝えられていくわけです。しかもこの一連の流れは必ず一方通行です。
アドバイス
物理は脳を必要とし、脳は物理を必要としている
高校生のみなさんには、物理学の研究室なのに、マウスやその脳を使って脳・神経科学の研究をやっているなんて想像もつかないかもしれません。
しかし、脳・神経は自然が作った最高の物質系です。問題は、生体電気パルスの伝播と神経結合の物質過程から、いかにして精神が生じるか?です。物理科学は、デカルト以来、精神の問題を脇に置き、物質の運動と構成に集中して、自然の謎―物性、物質の究極、宇宙の始まりなどを次々と解明してきました。しかし今や、生命と精神に対しても、その有効性が試されていると思います。また脳と心を解明するためには、物理だけでなく、数学、化学、生物学、心理学、医学、工学など、すべ ての科学と技術を総動員することも必要です。
卒業生の多くは、システムエンジニアになりますが、中には、脳神経の研究者もいれば、バイオテクノロジー、医療の分野に進んだ人もいます。また若くして世界的なIT企業の社長になった人もいます。高分子機能材料、ナノテクからITまで、活躍できる分野は様々ですが、今後は、健康、環境の分野でも、ますます必要とされてくると思います。
理学部 物理科学科 別所 親房教授
- プロフィール
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京都大学理学部(物理学科)卒。専攻は生物物理学、分子脳科学。量子力学の父Schrödinger博士の「生命とはなにか?」を読んで発奮し、DNAの二重ラセン構造の発見者Crick博士にあこがれ、生物物理の研修員になって、生物物理学、分子生物学の分野に進む。20年前に米国Stanford大学に留学し、Scheller博士の下で、アメフラシの分子神経科学を始めた。Scheller博士を介して、憧れのKandel博士とも知り合う。今から60年前の湯川秀樹博士の「これからの自然科学は物質から精神へ向かうだろう」の予言は的中し、その方向に進んできた自分を振り返って、「思えば遠くに来たもんだ」と感慨深い。島根県立大社高校OB。