内戦終結から15年を迎えたスリランカから考えるガザ・イスラエル戦争 2024.09.27

スリランカ北部ジャフナの市場の風景

9月21日に実施されたスリランカ大統領選では、ディサナヤカが勝利した。ディサナヤカ率いる「スリランカ人民解放戦線(JVP)」は、南部のジャングル地帯を拠点とし、かつて政府に対し武装闘争を行っていたが、政治組織として生まれ変わった経緯がある。一方、同時期に、北部・東部を拠点とした反政府武装勢力の「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」は、スリランカ政府軍によって2009年に掃討された。本ニュース解説では、スリランカ内戦を概観した上で、筆者による現地調査から、LTTEと政府軍の最後の激戦地となったスリランカ北・東部の現状と内戦の影響を解説する。ハマスせん滅を目的とするガザ・イスラエル戦争に対し、LTTEの壊滅で終結したスリランカ内戦から得られる教訓は何であろうか。

スリランカ内戦の背景

インド洋に浮かぶ島国のスリランカは、ポルトガル、オランダ、イギリスの植民地支配を経て、1948年に英連邦の自治領として独立した。スリランカは、主に仏教徒であるシンハラ人75%、ヒンドゥー教徒が大半を占めるタミル人15%、ムーア人(ムスリム)ら10%から構成され、宗教としては、その他キリスト教徒もいる。
独立後、民族、宗教、社会階層(カースト)間の対立が顕著になり、1983年ごろから内戦状態に陥った。その背景には、イギリス植民地政府による少数派タミル人を重用した分割統治政策があった。イギリスはタミル人を下級役人として優遇し、イギリスに反抗的な多数派シンハラ人を統治させた。その反動が、独立後に高揚したシンハラ民族主義として現れた。仏教の保護や、タミル人の市民権のはく奪、シンハラ語のみを公用語とするなどといった、シンハラ優位政策に、タミル人の非暴力な抵抗は1970年代から次第に暴力的な運動へと変化していった。

LTTEによる武装闘争

スリランカ北部と東部地域を「タミルの国(タミル・イーラム)」として、民族自決による国家分割を掲げて武装闘争を率いたのがLTTEであった。1973年に結成されたLTTEと政府軍との戦闘は2009年にLTTEが軍事的に制圧されるまでおよそ30年続き、少なくとも8万人が犠牲になったとされる。中央政府の支配が及ばないLTTE支配地域では、LTTEが保健衛生、教育、メディア、治安司法サービスなどを担い、いわば「自治政府」として機能するようになっていた。
LTTEは政府による抑圧や暴力に抵抗しただけでなく、タミル社会の課題であったカースト差別や女性に対する暴力を否定し、社会変革を目指したとされる。北・東部のタミル人からは一定の支持を得ていた。例えば、女性に対する性暴力はLTTE支配地域では厳罰化されたため、女性は安心して外を歩けたという※1。他方で、LTTEは「タミルの唯一の代表」として他の武装グループを排除するなど、タミル社会を暴力で支配した。住民への徴税や物資徴発などは強制力を伴うものであり、とりわけ子どもの徴兵は大きな国際問題となった。また、シンハラ人やムスリムの民間人虐殺や、首都コロンボなどで市民を標的とした自爆テロを行い、要人の暗殺にも多数関与したとされる※2

政府側の圧倒的勝利による紛争終結

2002年にノルウェー仲介による政府とLTTEとの停戦協定が結ばれたが、次第に衝突が再発するようになり、2008年には正式に休戦協定が破棄された。スリランカ国軍は圧倒的な軍事力を用いてLTTEを追い詰め、北東部沿岸地域に敗走させた。この攻撃によって30万人を超えるタミル人が戦火を逃れるために避難民となり、LTTEと共に北東部海岸地域に逃れた。政府軍は「No Fire Zone(NFZ:安全地域)」を設定し、「民間人の被害ゼロ」を方針として「人道救援作戦」を実行した。しかし実際は、LTTEと民間人の区別は難しく、政府軍はNFZを包囲し、NFZ内の病院や人道支援施設を攻撃した。LTTEもまた、避難民を政府軍の攻撃からの「人間の盾」とし、NFZから逃れることを許さなかった。6か月続いた最後の攻防では、食料や医療物資の供給も絶たれ、少なくとも4万人の避難民が犠牲となったとされる※3
2009年5月、LTTEの最高指導者が殺害されたことで、内戦は終結した。政府軍は主要なLTTE幹部を殺害し、戦闘員を投降させた。大統領はLTTEの壊滅と完全勝利を宣言し、国内からは喝采を浴びたが、国際社会からは内戦の最終段階における民間人の殺害が戦争犯罪にあたるとの厳しい批判にさらされた。2011年、イギリスChannel 4のドキュメンタリー映画「スリランカのキリング・フィールド」で、NFZに逃げ込んだ住民が空爆で殺害された様子や、投降したLTTE戦闘員の処刑や女性戦闘員が性的暴行を受けて処刑されたと思われる映像が放送され、世界に衝撃を与えた※4。国連は、専門家による調査を行い、政府軍とLTTE双方による内戦末期の戦争犯罪を指摘し、政府による責任追及を求めた。これに対し、スリランカ政府は激しく反発し、国際社会によるさらなる調査を拒否し、疑惑自体を否定した※5。国連人権委員会は戦後15年を経てもスリランカの人権状況を監視対象とし、戦争犯罪の責任追及や真相解明、強制失踪者への対応を求める報告書を出している※6

紛争後のタミル人の苦境

LTTEを軍事的に制圧した政府は、北東部を軍による統制下においた。戦闘を逃れるために避難した人々は、戦後も軍が管理する避難民キャンプに半年以上留め置かれた。避難民キャンプは有刺鉄線で囲まれ、自由な出入りもできず、実質的には収容所とも言えるものであった。各地に地雷が敷設されていたこともあり、キャンプを出ても何年も自宅に戻ることができない避難民もいた。さらに、かつてのLTTE支配地域は、軍が接収した土地に駐屯地が造られるなど軍事化が進み、テロ防止の名目で、タミル人は治安機関に監視されるようになった。

地雷除去は日本などの支援を得て行われている。
2024年8月時点で未だ除去が完了していない地域がある。

2008年以降の戦闘は北・東部に壊滅的な被害をもたらし、帰還できたとしても避難民の生活の立て直しは困難を極めた。スリランカの北・東部、特に最後の激戦地である北東部のムライティブ県は最も貧しい地域である※7。とりわけ貧困率を押し上げているのが、タミル人世帯のおよそ2割を占める戦争で夫を亡くした女性世帯主家庭である※8。筆者がインタビューした女性たちも、紛争によって稼ぎ頭である夫を亡くし、家父長制の強いタミル人社会で、家族を養うことの困難に直面したことを話していた。賃金が安いだけでなく、就ける職業も限られた他、暗くなってから帰宅する際の危険もあったという。
また、内戦を通じて多くのタミル人が行方不明になった※9。内戦末期の混乱の中で、子どもが行方不明になった親たちは、当局からの嫌がらせを頻繁に受けながら街頭でデモを続け、今も子どもたちの行方を捜している※10。政府は「行方不明者調査局」を設置し、死亡証明書を発行して幕引きを急ぐが、母親たちは「どこかの秘密キャンプで生きているのではないか」と譲らない。LTTEの協力者として軍に投降し行方不明になった子どもの母親は、子どもの最期を知るまでは戦争は終わらないと話していた。

他方で、筆者は現地で紛争によってエンパワーされた女性にも出会った。任務として英語を学んだLTTEの元戦闘員の女性は、得意の英語を活かして戦後地元のハーブを使った紅茶の会社を立ち上げた。元戦闘員の女性や内戦で夫を亡くした女性を雇用し、女性の経済的自立を支えたいと話していた。今もなお経済的苦境にあるタミル社会で、元戦闘員の女性はLTTEの目指した社会変革を平和的な手段で達成しようとしている。

「行方不明の子どもたちの母の会」のメンバー
起業した元LTTE戦闘員

スリランカ内戦から得られる教訓とは

スリランカ政府は軍事的勝利によって、30年続いた内戦を終わらせ、LTTEの壊滅に成功した。内戦終結から15年経ったいま、スリランカ北・東部でLTTEの復活はあり得るのだろうか。筆者はこの問いを現地専門家に投げかけたが、肯定する答えは皆無であった。北・東部のタミル人は徹底的に痛めつけられ弱体化し、抵抗する力はないという。ただ、この先はわからない。かつてのLTTE支配地域は、戦闘で破壊された家屋こそ目にはしないものの、未だ貧しく、軍に土地を奪われ、治安機関に監視され続けている。タミル人に向けられた暴力と差別の歴史は周辺化されており、解消されない不正義への怒りがLTTEへの信奉に向けられても不思議ではない。LTTEは非合法化されており、LTTE支持を公言する人はいない。しかし、貧しさから自暴自棄になった若者が再び武器を取ることを心配する声もある。実際、筆者にLTTEを支持すると話す若者もいた※11。将来に希望を持てないタミル人の若者は、カナダやイギリスなど海外移住を目指すというが、経済危機に直面しているスリランカでは海外渡航は今後ますます難しくなるだろう。
スリランカ内戦とガザ・イスラエル戦争では前提条件が大きく異なる。スリランカ内戦では欧米諸国による政府側の戦争犯罪の追及がある一方で、イスラエル政権は欧米からの積極的な支持を得ている。その意味で、パレスチナ人の抱く不正義は、西側社会との一層の断絶を招くことになるかもしれない。
暴力によって武装勢力を倒しても、紛争の根本原因が解決されない限り、イデオロギーは生き続け、紛争の火種は消えることはない。軍事的にLTTEの壊滅に成功したとされるものの、スリランカ政府は未だLTTEの復活に疑心暗鬼になっている。長期的には、イスラエルにとっても平和的解決こそが、自国の安全につながることは間違いないだろう。


  1. 筆者による北東部タミル人へのインタビュー(2024年8月27日)。
  2. 例えば、インドのラジブ・ガンディー首相や、ラナシンハ・プレマダーサ大統領が自爆テロで暗殺された他、1996年のスリランカ中央銀行の自爆テロでは90人を超える市民が犠牲となった。
  3. Human Rights Council, Report of the OHCHR Investigation on Sri Lanka, A/HRC/30/CRP.2, 2015.
  4. Killing Field of Sri Lanka, https://www.channel4.com/programmes/sri-lankas-killing-fields
  5. 内戦を終結させたマヒンダ・ラージャパクサ政権は国連人権委員会のスリランカ決議に対抗し、国内で真実委員会を設けるなど、疑惑の払しょくと国際社会の介入に抵抗した。その後もさまざまな移行期正義のプログラムが導入されたが、いずれも政治的意志に欠けるものであった。Kiran Kaur Grewal, “The Epistemic Vilence of Transitional Justice: A View from Sri Lanka,” The International Journal of Transitional Justice, 17, 2023, 322-338.
  6. 最も新しいものは2024年に出された。Office of the United Nations High Commissioner for Human Rights, Accountability for Enforced Disappearance in Sri Lanka, 2024.
  7. Department of Census and Statistics, Poverty indicators-2019, April 2022, available at http://www.statistics.gov.lk/Poverty/StaticalInformation/PovertyIndicators-2019.
  8. 日本経済新聞「スリランカ混乱の背景 コロナ禍に失政が追い打ち」2022年8月12日。
  9. 正式な数は不明であるが、何万という人が強制失踪しているとされる。2023年時点で「行方不明者調査局」には1万5千件の登録がある。
  10. 詳細は以下を参考のこと。Amnesty International, Still No Answers: An update on the rights of victims of enforced disappearances in Sri Lanka, 2022, available at https://www.amnesty.org/en/wp-content/uploads/2022/03/ASA3752782022ENGLISH.pdf.
  11. 2019年の毎日新聞の取材でもLTTEを支持する住民が登場する。毎日新聞「スリランカ、遠い⺠族融和 内戦終結10年 北部ジャフナ、タミル⼈の不信根強く」2019年11月27日。

付記:現地調査は科学研究費助成事業(基盤C 19K01516)の研究助成を得て行ったものである。

クロス 京子 教授

平和構築、紛争解決学、人間の安全保障、移行期正義

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