なぜ《モナ・リザ》は狙われるのか 2024.02.28
2024年1月28日、ルーヴル美術館のレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》にオレンジ色の液体がかけられるという事件が起きた。一昨年には生クリームが《モナ・リザ》に擦りつけられるという似たような事件があったばかりである。ガラス板で保護されているのでどちらの場合も事なきを得たとはいえ、なぜ《モナ・リザ》はそんなに狙われるのか。
《モナ・リザ》の受難
《モナ・リザ》は言うまでもなくフランスのルーヴル美術館の至宝で、世界で最もよく知られている名画のひとつである。フランス国王フランソワ1世が最晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチをアンボワーズに招いたことで、この名画はフランス王室のコレクションに入った。
この作品を世界的に有名にしたのは20世紀初頭の盗難事件である。盗まれて、フィレンツェのウフィッツィ美術館に売られそうになったのだ。この盗難事件は世界中で報道され、世間を大いに騒がせた。その後もこの名画は石を投げられたり、硫酸をかけられたりして損傷したことがある。現在では門外不出ながら、日本に1974年に貸し出されたときには、車椅子での入場を禁じるという措置に対する抗議として赤いスプレーを吹きかけられた(ガラス板によって防止されたが)。このように《モナ・リザ》の名声が高まるにつれて、文化財破壊行為(ヴァンダリズム)のリスクも高まったと言える。
環境活動家の標的
最初に述べたように、近年《モナ・リザ》はエコテロリズムの標的となっている。2022年5月の事件では、高齢女性に扮して車椅子に乗った30代男性が《モナ・リザ》にケーキを擦りつけ、「地球について考えろ!」と叫んだ。このニュースが世界中のメディアで大々的に報じられたためか、模倣行為が相次いだ。同年、ロンドンのナショナル・ギャラリーでゴッホの『ひまわり』に環境活動家2人がトマトスープをかけ、ドイツ東部のバルベリーニ美術館で、環境活動家2人がクロード・モネの『積みわら』にマッシュポテトを投げつけるなど、著名な絵画を狙って気候変動対策の必要性を訴える抗議活動が相次いだ。
絵画を標的にした理由について、『ひまわり』にトマトスープをかけた活動家は、「市民社会が崩壊したら芸術は何の役に立つのか。芸術を楽しむ世界に生きたいのなら、アーティストや芸術を愛する市民は抗議活動に踏み出す必要がある」という声明を出している。
今回、《モナ・リザ》に野菜スープが浴びせかけられた事件もこの流れで捉えることができる。活動家はその直後「健全で、長期的な食料の権利を!」と叫んだ。農業従事者の過重労働や気候変動、貧困の問題などを背景に、食に関わる諸問題を効果的に訴えるためにこの名画を利用しようとしたことがわかる。
人工と自然の対立
こうした一連の過激な環境活動家たちの行為は、センセーションを狙った犯罪と一般的に受け止められている。彼らの行動に眉をひそめ、不快感を抱くひとは多いが、ここで、なぜ名画が狙われるのか考えてみたい。まずは人工と自然の対立が背景にあると推測できる。今日では美術品は投機の対象であり、資本主義の象徴である。犯行に及ぶのは若者であることが多いが、金儲けのために消費や開発によって地球環境を損ないながら、素知らぬ顔をして芸術を享受する大人のブルジョワの偽善性を断罪するということだ。
ヨーロッパでは美術館は身近な存在でセキュリティもさほど厳しくないので、比較的容易にインパクトのある動画を撮り、SNSで同じ若者たちに訴えることができる。しょせん人工物にすぎない芸術品とかけがえのない自然環境のどちらが大切なのかという、極端であっても真剣な問題提起なのである。
芸術の政治性
他方、日本で見逃されがちなのは、芸術には政治的な側面が伴うという当たり前の事実である。バンクシーがイスラエルとパレスチナ自治区との間の巨大なコンクリート壁に描いた『Love is in the Air(愛は空中に)』(2003年)を引き合いに出すまでもなく、アートは社会的弱者にとって抵抗の手段のひとつでもある(バンクシーの作品が高値で取引されていることは大いなる皮肉だが)。芸術が政治と切り離せない以上、《モナ・リザ》が過激な環境活動家によって文化財破壊行為の対象となるのは、いわば宿命とさえいえる。
《モナ・リザ》がクリームやスープで汚される一連の様子はSNSで拡散されたが、興味深いことにこの動画は、画布に絵の具を飛び散らせて描くアクション・ペインティングや、公共の場で突発的に行われるゲリラ・アートなどを連想させる。文化財破壊行為は決して許されることではないが、美術館側も類似事件への対策を講じており、今回《モナ・リザ》にオレンジ色のスープが投げつけられた一件でも、声高にアピールを続ける活動家たちの前に警備員が粛々と衝立を運んで、スキャンダラスな動画を撮れなくした一連の様子は、まるでそれ自体が一種のアートのような趣さえあったのだ。
《モナ・リザ》の挑発?
最初の問いに戻ろう。なぜ、《モナ・リザ》はこれほど執拗に狙われるのか。
《モナ・リザ》は本質的に人々の何かを刺激する作品である、とスペインの画家サルバドール・ダリは断言している。実際、環境活動家によって汚された《モナ・リザ》は既視感を覚えさせる。そう、《モナ・リザ》の複製に髭を描いたマルセル・デュシャンの『L.H.O.O.Q.』(1919年)(ちなみに、この題名をフランス語で発音するとElle a chaud au culとセクシャルな意味の一文を連想させる)のほかにも、フェルナン・レジェがモナ・リザを鍵と併置したり(1930年)、フェルナンド・ボテロが彼女をふくよかにしたり(1959年)、アンディ・ウォーホルが白黒で30人に増やしたり(1963年)、ジャン=ミシェル・バスキアが1ドル紙幣に見立てたり(1983年)、近年ではヤン・ペイ=ミンが灰色と白で描いたり(2007年)、《モナ・リザ》のパロディは枚挙にいとまがない。20世紀のパロディは《モナ・リザ》の知名度を利用する一方、《モナ・リザ》そのものの知名度もパロディのおかげで高められてきたといえる。
不思議な微笑みと眼差しを持つこの女性のモデルは、フィレンツェの商人の妻リザ・デル・ジョコンドとされている(フランスでは一般的に《モナ・リザ》ではなく《ラ・ジョコンド》と呼ばれている)。だが、男性にも見えるためダ・ヴィンチの自画像ではないか、はたまたダ・ヴィンチの母を描いたものではないか、などと様々に議論されてきた。美術史家、心理学者、哲学者、文学者がこの絵について論考を残している。
そして、先に紹介したパロディだけでなく、大勢の画家が数多くの模写を試みてきたことでも知られている。敬愛するにせよ、挑戦するにせよ、《モナ・リザ》には確かに人を引きつける何かがある。世界でもっとも有名な絵画を汚そうとした環境活動家たちは、政治的な主張のために《モナ・リザ》を利用しようとして、はからずして自分たちも《モナ・リザ》の伝説を作り上げるのに貢献してしまったことに気がついているのだろうか。かくして、《モナ・リザ》を巡る謎も物語も、尽きることはなさそうだ。
長谷川 晶子 准教授
外国語学部 ヨーロッパ言語学科 フランス語専攻