内田 千春(うちだ ちはる)さん

略歴

1998年3月 京都産業大学 外国語学部 フランス語学科 卒業
1998年4月 京都信用金庫 入社
2003年4月 京都信用金庫 退社
2003年6月 フランス 語学留学
2005~2006年 ワーキングホリデーにて渡仏、フランス企業勤務
2007~2008年 フランス ビジネススクール
2009年~ フランスにてフリーランスとして活動
(2019年9月現在)

渡仏までの経緯

フランス在住16年目になる内田と申します(2019年現在)。もともと最長で一年間のつもりで渡仏したはずが、フランス好きが高じて現在に至ります。
私は小さなころから海外志向で、小学校高学年のころから海外文通をしていました。オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、オランダの同年代の子たちとの英語の手紙のやりとりです。高校卒業後の進路も自然に語学系を選んでいました。推薦入試で英語を専門とする大学に受かりましたが、得意科目の英語以外を学びたいという気持ちが強くなり、悩んだ末、「トリコロールカラーが好き」「テレビで見たモンマルトルの階段の風景が忘れられない」という単純な理由でフランス語を選び、一般入試で京都産業大学のフランス語学科を受験しました。このときの決断がなければ、今の私はありません。こうして私は、4年間にわたってフランス語を学ぶことになりました。
入学してすぐ、語学は得意だと思っていた私の考えは見事に打ち砕かれました。「フランス語、わけ分からん~!」と嘆く毎日。そこで真面目に勉強すればよいものを、海外旅行資金のためにアルバイトにも精を出していたため、出席率はよくても、授業中は疲れて居眠り。真面目な学生とは言い難いものでした。すばらしい先生方にも、学費を出してくれた両親にも、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
大学2回生の春休みには、私の人生を変えた旅と言っても過言ではない、湟野先生の企画した約一ヶ月のフランスツアーに出かけました。「アルバイトを一ヶ月間も休めない」と誘いを断る私に、クラスメイトたちが「長期間の旅に出られるのは学生のときだけやで!」と連れ出してくれたのです。パリに到着した夜、先生たちと一緒にシャンゼリゼ通りで凱旋門を見た瞬間、鳥肌が立ちました。あの感動は今でも忘れられません。パリ以外の地方もぐるりと周り、私はすっかりフランスの虜。寝ても覚めてもフランスのことばかり考えていました。そして、残りの学生時代と社会人になってから留学を決意するまでの間に、実に10回もの渡仏を重ねました。自分のフランスへの気持ちが本物かを確かめるために、他のヨーロッパ諸国やアジアなども数多く訪れましたが、「住みたい」と思ったのはやっぱりフランスだけ。これだけ好きなら一度は長期滞在してみないと一生後悔すると思い、大好きだった仕事を辞め、貯めたお金を握りしめて、2003年にフランスの地方に飛び立ったのです。

留学、ワーキングホリデー、そして再びの留学

あえて日本人があまりいない小さな町を選び、語学学校に通い、一年間にわたって世界中から集まってきた外国人のみんなとキラキラ宝物のような毎日を過ごしました。到着初日こそ淋しくて涙を流したものの、学校に行き出すと淋しさは吹っ飛ぶほどの楽しさ。行きつけのカフェもできたし、今でも連絡を取り合うくらいのフランス人の友人たちもできました。大学時代、睡眠不足で授業中はよく寝ていたけれど、先生方のフランス語は耳にしっかり入ってきていたようです。クラス分けテストの結果はいきなり中級。ヨーロッパ系の人たちはヒアリングも強く、私には難しくて白目をむきそうな日々でしたが、授業以外で友人たちとフランス語で話しているうちに、フランス語がすっと入ってくるように。そして一年が経ち、上級クラスを終えることができたのです。
言葉を話せるようになってくると欲が出て、次は仕事をしてみたくなりました。そして、語学留学の後に一旦帰国をし、ワーキングホリデービザを取得。パリに戻ってからフランス企業に履歴書を送ると、特に募集はしていなかったのに運よく採用してもらえ、フルタイム勤務を始めました。下手ながらに書いたモチベーションレターの熱意が伝わったのかもしれません。毎日、小さな辞書とノートを持参し、同僚のフランス人たちとの会話から知らない単語を書き留めるようにしていました。気づけばいつの間にか辞書が不要になり、スムーズにコミュニケーションが取れるようになっていてうれしかったのを覚えています。ときにはイライラさせたと思いますが、根気強く私と接してくれた彼らのおかげです。
ワーキングホリデー終了時には、その後も私がフランスで生活できるよう、勤めていた企業が終身雇用の契約書を携えて労働許可証の申請をしてくれたのですが、労働局に却下されてしまいました。企業の顧問弁護士が異議申し立てもしてくれたのですが、再び却下。理由は「失業率が高い今、この職業は外国人には与えられない。この職種の需要と供給がアンバランスである」「フランスでの学歴がない(語学学校は学歴とはみなさない)」。移民追放の波が押し寄せているときで、運が悪かったのもあります。それならば、と再び学生ビザを取得し、フランスでの学歴を持つために小さなビジネススクールに通いました。学費と生活費は、ワーキングホリデー時代に勤務していた企業でパートタイムとして働かせてもらい、まかなっていました。学生は週に20時間の就労しか認められていなかったため、常にギリギリの生活で、コーヒー一杯飲むのも躊躇していたくらい。けれども自分で決めたことなので、両親に弱音を吐きたくない・・・、自分の資金でやりくりしなければなりませんでした。今でこそ笑い話ですが、極限の貧乏生活にまつわるエピソードはたくさんあります。そんな中、なんとかフランス語での論文も提出し、修士まで取得してから再び労働許可の申請をしたのです。同じ職業ではまた却下だろうと判断して別の切り口から攻め、フリーランスとして活動できる許可証を得ることができました。実は、この許可証申請のときに集まった推薦状の中には、フランスでの上司や先輩、友人たちのものだけでなく、大学時代にお世話になった平塚先生のものもあったのです。心から感謝いたします。応援して下さった人々のおかげで、今の私があります。

フリーランスとしての活動

子どもたちがまだ小さいので現在はだいぶペースを落としていますが、フリーランス活動は、日本の雑誌のパリ特集、フランス特集の取材やコーディネート、執筆からスタートしました。チャンスをくれたのは、英米語学科出身で出版社に勤めていた、サークルの同期です。この分野で何の経験もなかった私のために日本から編集長(サークルの同期の上司)が取材指導に駆けつけて下さり、そのときの仕事が次へとつながっていったのです。この恩は一生忘れません。一番好きな取材テーマは、パリジェンヌのアパルトマンのインテリア。フランス人の生のエスプリに触れられ、いい刺激がいっぱいなのです。過去にはガイドブックの担当もさせてもらいました。これらの仕事から派生し、通訳やアテンド業務も入ってくるようになりました。ときには芸能人のアテンドもさせていただいていて、違う世界を垣間見ることができるいい経験になっています。
また、数年前からは、数社のフランス企業と日本企業の輸出入ビジネスのサポートもしています。日仏間の文化の違いによる摩擦や、言葉の壁によるトラブルをなくす潤滑油のような役割です。サポートしている企業が大きくなっていくのを見るのはうれしいもので、やりがいを感じています。フランスと日本の架け橋になりたいと思っているので、これらの仕事ができることはこのうえない喜びです。そして、今もこうして子育てをしながら自分のペースで仕事をさせてもらえる環境には感謝の気持ちしかありません。

学生の皆さんへ

自分がやっていることひとつひとつに意味があるのだと思える日が来るので、今やっていること、やらなければならないこと、好きなことに精一杯の力を注いでください。すべてが身の肥やしとなり、その後の経験に役立ちます。そしてありきたりですが、夢はチャレンジする前にあきらめないで下さい。皆さんのご健闘を祈っております。

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