現地紙の記事翻訳

2010年1月15日(金)付けテンポ誌インターネット版より

4年次・森本早織訳

 「地震被災者の住宅修復のためのコンサルタント選出に遅れ」(一部省略)

 西スマトラ地震被災者の住宅修復は依然として始められていない。なぜならば、復旧復興支援を管理するコンサルタント会社を選ぶ入札の開始を待たなければならないからだ。
 一方、国家防災庁からの3139億3000万ルピア(約31億3930万円)の早期復旧資金はすでに西スマトラ州政府に届いていて、その内の1151億8000万ルピア(約11億5180万円)2009年12月から破損住宅の修復に当てられることになっている。しかし、そのお金は早くて2010年3月初めに被災者の手元に届くことになりそうだ。
 西スマトラ州復旧復興技術支援室で住宅部門を担当するフェブリン・アナス・イスマイルによると、「コンサルタント会社の入札手続きには一カ月かかり、選ばれたコンサルタント会社が仕事を始めるのは早くて2月の終わりになる。そのコンサルタント会社が資金分配を管理し、2010年3月から5月までの三ケ月間で、損傷が激しい7636の住宅が早期復旧資金によって修復されることになるだろう。」とのことである。

原文

2009年12月27日(日)付けスランビインドネシア紙より(一部省略)

4年次・竹本奈津子訳

 「アチェを見つめて」

 あのアチェを襲った災害から昨日でちょうど5年が経った。あまりにも多くの物事が変化した。多くの経験と教訓が得られた。我々はこの間の記憶を通じてこれからのアチェの行く末を見つめなければならない。すでに成し遂げられたことは多い。それらによって、我々は世界から尊敬され、自ら尊厳を保って、民族の歩みを進めることができるのだろうか。 あの日、死の街となったバンダ・アチェは、現在、人口が増え、車が渋滞し、高級ホテル、レストランが立ち並び、24時間営業のインターネットカフェには若者たちが溢れる国際都市に変貌した。

 また、人々は以前と同じ顔つきをしているが、人づきあいや生活スタイルはすっかり変わっている。かつてバイクにまたがっていた人は高級車に乗り換え、かつてムラユ語アチェ方言を上品に話していた人は西洋語風のアクセントを使うようになった。 変化はいいことなのだろう、おそらく。しかし、この変化は永遠に続くものなのだろうか。実は、人々は混乱した状況の中で、自らのアチェらしさを失っているだけなのではないか。

 以前では考えられなかった社会状況も見られるようになっている。例えば、若者を中心にギャンブル、エイズや同性愛が広がっている。そして、親や伝道師たちは、それらの問題から離れたところにいる。

 神の津波はとても激しく、人々の命と財産を消し去った。しかし、「援助と開発」という名の津波はより激しく、生命と財産だけではなく、社会のモラルをも消し去ってしまった。

 神アッラーは忠告する。「人は明日何が起こるか知ることはできない。人はどこで死を迎えるのかを知ることもできない。」津波や紛争によって亡くなった父母や兄弟が眠るこのアチェの地を、我々は守らなければならない。今、和平を迎えたアチェが真の喜びに満たされ、二度と冒涜されることがないように、アチェを見つめ続けていくのだ。

原文

2009年12月26日(土)付けアンタラ通信より

4年次・西村洋威訳

 「津波五周年に残された四つの問題」

 アチェ州知事イルワンディ・ユスフは、津波の災害がアチェを襲ってから五年、まだ解決されていない四つの問題があると述べた。「アチェ復興庁によって成し遂げられた任務はもちろん大きな成功を得た。しかし、最後までやり遂げなければならない四つの問題も残っている。」と、バンダ・アチェで行われた津波五周年式典で語った。
 バンダ・アチェのウレレー港で行われた式典には、ブディオノ副大統領をはじめとする政府高官、友好国の代表らが出席した。
 2004年12月26日に発生したマグニチュード8.9の地震とその後の津波は、アチェ全域で20万もの死者、行方不明者を出した。
 イルワンディ・ユスフが述べた最後までやり遂げなければならない四つの問題というのは以下のことである。まず初めに、アチェを縦横無尽に走る全長約1,160キロメートルにも及ぶ国道、州道、県道のような戦略的な社会基盤の建設である。第二に戦略的な経済開発と雇用の問題である。第三に人々による組織的な社会建設であり、最後にその他の支援活動である。  「我々が直面している挑戦は大いに多様である。しかし、我々はこの挑戦に一致団結した気迫としっかりとした共同作業を通じて立ち向かうことができるであろう。」と。州知事は語った。
 津波の災害は人間的な連帯感を通じて地上の人類を兄弟のように結びつけた。「津波は、あらゆる関係者を交渉のテーブルへ向かわせ、アチェ紛争を終結させる足取りを速めさせもした。そして、津波は、四年間の復旧復興の過程を通じて、どん底からアチェを復興することに力を尽くそうという意識を人々の中に呼び覚ましもした。」と、州知事は加えて語った。 また、津波後のアチェの復興は、中央政府、資金提供団体、支援国および国連組織と切り離して考えることできない。「この五年間の国内、および国際社会の関心は、様々な進歩という成果を生み、アチェ住民を津波後の復興へ立ち上がらせてきた。」と、州知事は感謝を述べた。
  そして、州知事イルワンディ・ユスフは、津波後のアチェの復旧復興の五年間での達成状況を明らかにした。まず、12万4454の住宅、3005キロメートルの道路、226の橋が建設された。そして、1450にものぼる学校校舎、979の政府の事務所、12の空港、20の港が造られ、10万3273ヘクタールの農地も開かれた。特に、新しい農地はインドネシア最西端の州アチェの人々の経済成長を支えることにすでに大きく貢献していると説明した。

原文

2009年12月26日(土)付けスランビインドネシア紙より(一部省略)

4年次・臼井希、大西眞衣、荻野友子共訳

 「地震・津波後のアチェ社会の枠組み」

 2004年12月26日の地震と津波は未曽有の自然災害だった。しかし、その災害はアチェに大きな変化をもたらした。30年間に及ぶ武力紛争の闇に沈んでいたアチェは、世界中の注目を集める地域に変わった。そして、武力紛争を続けていた二つの勢力を2005年8月15日のフィンランドの首都ヘルシンキでの和平に関する覚書調印に向かわせた。
 地震・津波の後で、アチェは再び輝く夜明けの時を迎えた。1500人以上の外国人と数百ものNGOが洪水のように緊急援助に押し寄せた。その時期が終わるとアチェ復興庁が作られ、復旧復興が進められた。アチェは美しくなり、国際都市へと姿を変えた。イスラム法が施行されているナングロ・アチェ・ダルサラム州はインドネシアでジャカルタとバリに次いで国際的に知られた場所となった。
 今日は2009年12月26日、あの日からちょうど5年が経った。この間、多くの教訓が得られたが、それは一体どのようなことなのだろうか。
 一つ目は、人智をはるかに越えた自然災害をどのように理解し記憶するかということである。地震・津波により、多くの生命が失われ、数千もの子供達が孤児になり、親は子を失い、社会の財産も失われたが、人々の中には精神的な覚醒がもたらされた。苦難の記憶は、嘆き悲しみのためではなく、時が止まったアチェを未来へ向かって立て直す力を湧きあがらせるために呼び起されるものだ。
 二つ目は、和平と民主主義の実現である。30年間武力紛争が続いたアチェは、今や世界的な紛争地域における和平構築のモデルケースである。また、ここ数年の地方首長選挙、総選挙が平和的、民主的、そして透明性を持って行われたことは、アチェにおける民主主義の実現を国際社会に実証したものだ。
 三つ目は、インフラの再建によってより平和で豊かな社会を構築するということである。現実に、多額の資金がアチェに流れ込み、道が整備され、きれいな建物が建った。しかし、アチェの建設はまだ十分ではない。依然として、経済的に、政治的に、法的に、そして社会的に弱い立場の人たちがいて、その人たちは、粗末な家に住み、栄養不足で健康状態が悪く、教育も十分に受けられない。そして、アチェを昔のように戻そうとする一部の勢力への警戒も怠ってはならない。
 津波は深い傷を残した。私達は多くの愛する人を失った。しかし、時は立ち止まってはくれない。アチェは先入観なしに学び、省み続けるのだ。

原文

2009年10月24日(土)付けコンパス紙より

4年次・山本なつ子訳

「JICAが耐震住宅設計への援助を提案」

 JICA(国際協力機構)は、西スマトラ州パダン・パリアマン県政府に対し、耐震住宅・建造物の設計を提案した。
 「その提案は我々に対しすでに届けられているが、地震後の復興過程における住宅やその他の建造物の再建のために参考とされるだろう。」と、パダン・パリアマン県助役のユエン・カルノバは語った。

 その耐震住宅設計は2009年9月にパダン・パリアマン県を襲ったマグニチュード7.9の地震後の復興計画の中で活用される。ユエン助役によると、日本は地震に対する予測と警戒の分野で経験を持つ国として知られており、その提案はパダン・パリアマン県にとって必要とされているという。

 ユエン助役は「県政府だけでは、これからの復興の中で役立つ耐震住宅設計を行うことは難しい。」とも付け加えた。
 さらに、パリアマン市を訪れたJICAの職員との会談の中で、パダン・パリアマン県に提案された耐震住宅はアチェやジョグジャカルタでJICAが建てたようなものだということも伝えられているという。

 パダン・パリアマン県政府はJICA以外のいくつかの団体からも耐震住宅設計の提案を受けている。しかし、どの提案が採用されるかは、州政府、国家防災庁との調整会議の中で決定される。

 パダン・パリアマン県では、マグニチュード7.9の地震と土砂崩れによって、70833棟の住宅がひどく破損し、12630棟が損傷を受け、4442棟が軽い被害を受けた。また、675人が死亡し、527人が重傷、528人が軽傷を負った。

原文

2009年10月4日(日)付けコンパス紙より

4年次・岡本英恵訳

  「パダン、地震災害の中で」(一部省略)

 「皿とグラスはあそこで、ご飯とおかずはそこです。ご自由にお取り下さい。」と、西スマトラ州知事公邸の炊き出しに集まる人たちにトゥミナ(29歳)はにこやかに語りかけた。

 10月2日(金)は一日中たくさんの人が州知事公邸に詰めかけた。市内で開いている食堂がごくわずかな中で、炊き出しはたくさんの市民にとって救世主になった。

 その前日の10月1日(木)は、食事をすることは本当に難しいことだった。夕食をとろうとする人たちは、営業中の屋台を探しにパダン中をグルグル探し回らなければならなかった。例えば、ジャカルタからの取材陣一行は、ニュースを送り終えた後、木曜日の真夜中まで屋台を探すため市内の隅々まで走り回ったが、二時間たっても、営業中の屋台も見つけることはできなかった。

 結局、取材陣は諦めて、昼間から市内を回り続けたチャーターした車の運転手の家でお世話になった。金曜日も、同じような状態はまだ続いていた。パダンで開いているレストランは片手で数えられるくらいだったが、その中でも比較的大きなキタブスライマン通りのレストランには、食事をとろうと詰めかけた人たちの長い行列ができていた。

 ラーマーヤナ市場の前では、アチェの麺料理とお好み焼きを出す屋台だけが唯一営業していた。

 アイルマニス地区のアンダラス大学のキャンパス前では、東ジャワのなまず料理の屋台に客が詰めかけ、金曜日の昼には、その屋台で用意されたなまずはすべて無くなった。

 営業している屋台や食堂がわずかな中で、たくさんの人が炊き出しに詰めかけ、たくさんの人がご飯、麺に缶詰の魚にお湯がつくだけの食事に救われた。
「午後3時に炊き出しが始まってから、夜遅くまで休みなく食事を作り続けました。ご飯を炊き、麺をゆで、魚を料理し、お湯を沸かし、とにかく働き続けました。」と、トゥミナは話した。 9月30日(水)の夜、トゥミナの家は地震で壊れた。すぐに外へ飛び出した彼女は友達と一緒にけがをした人たちを助け、二時間ほど眠った後、知事公邸の炊き出しに加わった。10月1日(木)の昼過ぎに、知事公邸にテントが張られ、鍋ややかんが揃い火にかけられてから、ずっと働いている。炊き出しの鍋は直径が60センチもある大きなもので、15キロものご飯を一度に炊くのは大変な力仕事だ。体はへとへとに疲れているが、炊き出しに集まる人たちの笑顔が、彼女を支えているのだ。
 また、知事公邸での炊き出しの他にも、パダンの食生活は少しずつ立ち直っている。市内で食堂を開いている一人であるアジス・チャニアゴは、二人の家族を地震で失い、まだ喪に服したいと屋台を開いていなかった。アジスは10月5日(月)には何とか屋台をオープンしたいと思っている。

原文


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